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没後400年上杉景勝と関ヶ原合戦

執筆者の写真: 伝統屋 暁伝統屋 暁

どうも、伝統技術を愛してやまない伝統屋 暁のスタッフです!


さて今回は委託販売のご案内です。






米沢市上杉博物館

「上杉景勝と関ヶ原合戦」


前期 4月22日(土)〜5月21日(日)

後期 5月27日(土)〜6月25日(日)


こちらにて委託販売をさせていただきます。


「上杉景勝と関ヶ原合戦」の展示は上杉景勝没後400年記念の特別展です。



上杉景勝(うえすぎ かげかつ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての大名で米沢藩の初代藩主。


母親が上杉謙信の姉であったことから実子のない謙信の養子となり、越後を統一した人物です。


謙信からの家督相続、信濃国・越後国の支配を巡る争い、家臣団の再編成、そして関ヶ原の戦いで活躍しました。



関ヶ原の戦いは、徳川家康が会津の上杉景勝を討伐するため下向したことにより始まったもの。


上杉家は豊臣秀吉が亡くなってから、徳川家康と対立していました。


そんな中1600年徳川家康から、領内にある城の改修に召喚命令が出されますが、景勝は拒否します。

拒否する際、直江兼続に挑発的な書状を送らせました。有名な「直江状」とはこの書状です。


これが会津征伐への理由となり家康は上杉氏を討伐するべく会津へ出陣したのが関ヶ原の戦いの始まりでした。


景勝は、関ヶ原の戦いにおいて西軍に属し、中心的な存在として徳川家康率いる東軍と戦いましたが、上杉軍は戦力的に不利で多くの部下を失い、最終的には敗北してしまいます。


景勝は徳川家康に降伏する他ありませんでした。


その後上杉景勝は、直江兼続と共に上洛し徳川家康へ謝罪したことで上杉家は存続しました。

しかし、30万石の米沢へ移封されます。

そして米沢藩主となり、領内を立て直しました。


景勝のことを語るには直江兼続(なおえかねつぐ)はなくてはならない人物でしょう。


直江兼続(なおえかねつぐ)は景勝を支えた文武兼備の智将です。


実はこの直江兼続、私の友人が大好きな武将なんです。

この人がいたところへ行きたいと越後・米沢方面へ旅行に行ったほどです。

その友人から色々な写真を見せられたとき、「愛」という文字が入った兜に私は心を持っていかれました。

「愛」の文字を掲げて戦った武将がいたとは!




やはり謙信の思想が景勝、兼続に濃厚に受け継がれているようです。


この兜の「愛」は、謙信が自らを毘沙門天の生まれ変わりだと信じ、「毘」という文字の旗印を掲げて戦ったことを真似て「愛染明王(あいぜんみょうおう)」から来ているとか愛宕権現(あたごごんげん)から来ているという説があります。

(その他の説もあります)




謙信は景勝と兼続に、儒教の教えである「五常の徳」(仁・義・礼・智・信)を規範として、慈愛をもって民を大切にすることを説いました。


景勝は、自身の主義主張に基づいて独自の政治・文化を展開し、自由と平等を重んじる思想を持っていました。


後世においても高く評価され、多くの人々から尊敬されています。


米沢の歴史にとって重要な意味を持つ関ヶ原合戦と景勝の関係を、景勝没後400年を機にふりかえる展覧会にぜひ足をお運びください。


上杉景勝と関ヶ原合戦の壮大な物語を体感してみませんか?


期間中は景勝が所要した兜、直江状も展示されます。

前期と後期で展示内容が変わるため、特にお目当てのものがある方はこちらのサイトでチェックしてからどうぞ!




ぜひ、会場でその興奮と感動を味わってみてくださいね!




そして、コーディネートやご感想をSNS等で発信していただけると嬉しいです。


その際メンションをつけていただけたらありがたいです。


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伝統屋 暁で取り扱っている作品は全て本物の技術を詰め込んでいます。

和風アクセサリーが大好きなあなたにも満足いただける作品が揃っています。


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